病む家族

このような体験を背景に、認知症者の家族も病んでいると考えた方がよい、と私はスタッフに言ってきた。認知症をかかえる人には、「問題行動」があっても非難することなどけっして
しないスタッフが、家族には厳しい目を向けることがある。認知症をかかえる人の世界を知ってかかわらねばならないのと同様に、家族は闇の世界をかかえていることもある、私たちの目
が届かないところで追いつめられているのかもしれないと考えてかかわることを、私はスタッフに求めたのである。
家族を語ると、人はどうしても感情的になりやすい。だれもが自分が育てられ、自分がつくってきた家族という体験に引きずられてしまうからであろう。客観的に家族を視ることはかな
り難しい。だからこそケアにあたる者は、自分の家族観がかなり偏ったものであるかもしれないと意識的に考え、それを介護する家族に押しつけてはならないと自戒しておかねばならない。
かならずしも幸福とは言えない家族体験をもっているスタッフは、かえって倫理的に過ぎる家族像を求め、あるいは完壁な家族関係を期待して、そのような家族像に無理に押し込めよう
とする間違いを犯しやすい。
そうでなくとも、それぞれの家族には、それぞれの歴史があり、文化がある。それを無視して、家族指導と称し、大きな変化を家族に求めるなどという行為は、どだいうまくいくはずが
ない。むろん、老人虐待があっても見逃せ、などと言っているのではない。家族の態度を一方的に「優しい」「冷たい」などと裁断することの不遜さを指摘しているに過ぎない。
すばらしい親だったと考える子どもたちは、目の前の親の変貌をどうしても受け容れることができず、激しく叱責したり、つい邪険にしてしまうこともある。このような場合には、しば
らくお預かりして、距離をとっていただくようにしていた。むろん、その間、ご家族とは何度も出会って、お気持ちを伺っていた。
クリスティーンさんの娘さんたちも、敬愛していた冊親の変化をどうしても受けとめることができず、長女は世話を焼きすぎて衝突を繰り返し、次女は好きな馬の世話に逃避し、三女は
いじめに遭い、麻薬に走った時期もあったらしい。彼女らの姿、言葉はテレビでも報じられた。
あまりに無理して在宅介護を続けていると、ついには燃え尽きて、介護することさえ放棄してしまわれることがある。そうなると介護者は一見楽になったかにみえても、自責の念にかられることになる。不幸にして入所中に生命の限りを迎えられると、残された家族には取り返しのつかないことをしてしまったという悔いばかりが残る。

なかには家族という枠組みをいったん解体し、家族の紳から解き放って、ケアを専門家にゆだれた方がまだいい、という場合さえある。だから、私は「冷たい家族」を非難の目にさらし
てはならない、と考えてきた。

そのような思いから、私は「自分たちだけで介謹を背負うことはやめた方がいい。私たちにもお手伝いさせてください」とご家族に言い続けてきたのである。具体的な日常生活のケアを
専門家にゆだねたことで、ようやく優しさを取り戻せたと語る家族も少なくない。

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